sub3-503-3 栗橋宿→小金井宿 日程表へ戻る |
ウォーキング日(3日目) 2010年5月25日 曇り一時晴れ 単独 コース 概略地図はこちら 栗橋宿→中田宿→古河宿→野木宿→間々田宿→小山宿→新田宿→小金井宿 宿をあとに、薄日のさし出した道を歩き出す。通勤だろうか、駅方向に早足で歩く数人に会う。昨日の終点である土手下の八坂神社までは10分ほど要した、5:22、3日目のスタートだ。利根川から上る水蒸気だろうか、遠くが霞んでいる。R4の利根川橋の中間で埼玉県と別れ、茨城県古河市に入る。北詰で左折し神社仏閣の多い道を市街地方向に進む。東北線の踏切を渡り、茶屋新田に入る。この辺には5kmに渡り大きな松並木があったようだ。そして筑波山、男体山、浅間山、富士山が樹間から眺めながら歩けたとか。間もなくR354と交差する、6:31。 利根川橋南詰の交差点 利根川橋中間で茨城県古河市に入る 東北線踏切 昔は大きな松並木があった茶屋新田地区 今は住宅が並ぶ、田圃に映す住宅 R354交差点 駅付近から旧古河宿が始まるようだ、市街地は整然と整備され古河城御茶屋口門址、高札場址、古河本陣址、と旧跡の碑が建ち並ぶ。日光街道古河宿の旗の並ぶレンガの道に入ると、緑に囲まれた真ん中に往時の道標がある。文久元年(1861)に建てられたとか。江戸から古河宿に入り二丁目で突き当たり、左が日光街道、右が筑波道と分岐する。人々往来の助けにと建てたのが常夜灯形式のこの道標である、と案内あり。道はちょっと狭まり、よこまち柳通りを抜け、野木神社の所でR4に出る。 古河城御茶屋口門址碑 高札場址碑 古河本陣址碑 文久元年(1861)に建てられた常夜灯形式の道標 旧古河宿内の日光街道 旧日光街道は郊外へと 野木神社 野木交差点でR4へ R4沿いを旧跡を見ながら歩くが、旧野木宿の建造物等は見当たらず。小山市に入り、間々田駅付近を通過、間々田宿の始まった付近と思われるが、“逢いの榎”碑がある。江戸へ18里、日光へ18里で丁度中間地点で、“間の榎”だったようだが、“逢いの榎”となり縁結びの榎となって、賑わうようになったとか。今も昔も変わらない、ネーミング&語の使われ方で人々は動く世の中である。 この辺が野木宿の始まりで木戸があったとか 満願寺の十九夜搭 昔は江戸へ17里の一里塚、今は電信柱 日光裏街道大平に至る道標があったとか 法音寺 八幡神社 小山市に入る 間々田駅入口 逢いの榎碑 間々田宿本陣跡 旧間々田宿を出るとR4と分かれ県道265線に入る。間もなくR50の下を通って旧小山宿に入り、脇本陣のあった駅付近に出る。本郷町から花垣町に入り、そろそろ昼時なので蕎麦屋に立ち寄る。待ち時間があり、私のスタイルから、客人が色々問いかけてくる。「日本橋から男体山まで・・・」、というと、この言葉に目線が一斉に集まる。あとは、聞かれるままに「・・・・・・」、蕎麦屋のおかみさんまで加わって、「この間も、奥州街道・・・・」、と。支払を済ませると、飴3個「なめながら歩きなよ」、と差し出してくれた。同類が結構いるようだ。両毛線の踏切を渡り、D4とJR線の間をしばらく歩く。あるはずの一里塚が見当たらない、旧日光街道こだわる方はトコトン探すのだろうが、なくなってしまったのだろう、先へ進もう。R4に戻ると旧新田宿の辺、それらしきものなく、間もなく下野市に入る。 R4と分かれ県道265線 R50の下を通って旧小山宿に いかにも歴史を秘めたような持宝寺の山門と本堂 現代の小山宿通り 突き当りが小山駅 興法寺 愛宕神社 両毛線踏切 日清・日露戦争の出征馬碑 喜沢東交差点から右の小道へ 一里塚を探すが見当たらない R4に戻って橿(カシ)原神社 旧新田宿もそれらしきものなく、間もなく下野市に入る 下野市に入ると直ぐに川中子交差点、本日の到着点小金井駅入口と続いた、14:00着。資料を見ると小金井一里塚が直ぐ先なので、ちょっと足を延ばす。イャー、立派、地底から往時の人声が聞こえてくるようだ。シンボルの榎は何代か目のようであるが、雰囲気はスゴイ、東西に塚が並び東(R4側)が一里塚で間を旧日光街道が通っていたようだ。江戸日本橋を起点に22里、86.4kmということになる。 川中子交差点 小金井駅入口 日光街道中最も立派な一里塚と称される国指定史跡、小金井一里塚 榎(右側)とクヌギの同居 四角だったそうだが今は丸くなって、日本橋から22番目の一里塚だそだ。薄日もさして3日目が終ってスッキリ 本日の所要時間は、8時間38分、曇り一時晴れの一日だった。最後に見た小金井の一里塚、感動したなあ。明日はまた天気がくずれるという、今日見ておいて良かった。 日程表へ戻る |