旧清水街道歩きのご参考に

 現在の国土地理院1/25000地形図&昭文社の山地図(2005年版)には旧清水街道が図示されているが、昭和61年発行の昭文社の山地図では一部図示されてない。疑問に思い調べる、もっと前の実業の日本発行のブルーガイド“東京付近の山”では記入されていた。疑問は深まるばかり。

◆昭和61年発行の昭文社の山地図


◆同地図に添付されている解説書のコース案内


◆実業の日本昭和55年5月15日発行のブルーガイド“東京付近の山”の挿入地図



 そこでインターネット等ではどう紹介されているのか調べてみた(個人サイト)

@新潟県のサイト
新潟万葉風(http://park2.wakwak.com/~fivesprings/)⇒ご案内の中の新潟の山⇒
巻機山 に以下の記述があり、歴史の一端に触れていた。

(前略)、塩沢町清水集落である。この集落が面した街道の歴史は古く、足利時代には大体の街道筋が成立していたようである。その後、上杉謙信の関東出陣に際しては、この”清水通り”が多用されていた。しかし、永禄3年(1560)に小田原城北条氏康に敗れて以来、「清水通往来停止」となり、この通りは、関東と越後を結ぶ街道としての実権を三国街道に譲ることになる。
明治になり、政府が産業の育成に積極的に取り組み始めると、物資の大量かつ迅速な輸送が求められるようになった。運送手段が、人馬から荷馬車へと変わり、登りと降りと曲折が多い三国峠は明治10年を境に急速に衰退した。
明治14年には、清水峠越えの新道の建設工事が始まり、明治18年(1885)に竣工、国道昇格で三度脚光を浴び、宿場としての機構も整う。明治23年ころ、1日当たり、人が70人、人力車が100台にのぼったという。
しかし、大規模なトンネル工事が可能となり、信越・上越両線が開通したことで、要路としての命脈が尽きることになる。
現在清水集落は、巻機山登山、釣りの宿場として賑わいを見せているが、道沿いに軒を連ねる旅館のたたずまいや上州鉛の言葉の端端に、かつての街道の面影がしのばれる。いずれまた、新潟県から群馬県に通じる最短距離という利点が見直され、装い新たな「清水通り」に生まれ変わるかもしれないが・・・・。

A群馬県のサイトでも同様ちょびっと歴史に触れていた。
奥利根ゆけむり街道(http://www.oze.or.jp/~yukemuri/)⇒文化⇒街道⇒旧清水街道


古くは上州と越後を結ぶ物流の重要ルートであった。更に歴史を遡れば戦国時代末期に上杉謙信が関東出兵の際にこの街道を使い、清水峠越えをしたと言われています。
 今も当時の様子を垣間見ることができるのは、国道291号線の所々に残っている石垣であります。
 今は大きく育ったブナ林に囲まれたこの街道も、風に揺れる木々の音色と鳥のさえずり、沢の流れと落ち葉を踏む音。体全体で自然を満喫していただきたい。

B現状を写真等で紹介する興味深いサイトを3つピックアップしました、是非ご一読下さい。
  ★日本の道(http://japan.road.jp/)⇒国道紀行⇒群馬県国道291号新潟県国道291号、関連情報群馬/新潟県・清水峠

  ★日本の廃道(http://www.the-orj.org/)新潟県側の国道291を歩いた記録
    清水国道前編  清水国道後編

  ★越の山路(http://members.at.infoseek.co.jp/shinkdx/index.html) 旧街道の旅 これもなかなか面白い、後半に興味あり。

 調べていく中で、“中部北陸自然歩道”という名称が出てきた。環境省のHPを開き⇒自然環境・自然公園⇒その他の中の“自然大好きクラブ”⇒長距離自然歩道を歩こう⇒中部北陸自然歩道、と開く。以下の記述あり。

『中部北陸自然歩道は、新潟県山北町から滋賀県大津市までの雄大な山岳景観や日本海景観など多様性に富んだ歩道で、多くの人々が四季を通じて手軽に楽しく歩くことにより、その地域の豊かな自然、歴史や文化に触れ、自然保護に対する意識を高めることを目的として、平成7年度から整備を始め、平成13年春に完成しました。
 中部北陸自然歩道は、中部北陸8県(新潟県、群馬県、富山県、石川県、福井県、長野県、岐阜県及び滋賀県)にまたがる旧街道の北国街道、三国街道、中山道をメインルートとした延長4,029kmです。

 新潟県関連   
43 枝−g 歴史街道・米のみち(南魚沼市)
清水峠は重要な街道として貨客の輸送に古くから活用されてきた。上杉謙信が利用した十五里尾根、明治時代の街道(国道291号)開設・有料道路・兎平の宿泊茶屋等、賑わった歴史を感じながら森林浴を楽しもう。
〈距離〉20.0km
〈難易度〉3
〈区間〉清水バス停〜 追分 〜 分岐点 〜兎平 〜 清水峠 〜 分岐点 〜 追分 〜 清水バス停

 結論として、自然崩壊もあり変化していく中で地図から消えたり、再び見直され中部北陸自然歩道として蘇り、そしてまたこの道も自然に帰ろうとしている歴史の一幕であろうか。

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